

梅若伝説【太田川常願寺】
比叡山の稚児・梅若丸は人買いにだまされ、奥州に連れ去られてしまった。しかし、途中の武蔵国隅田川で病にかかり帰らぬ人に…。すると太田川で次々に災いが起こりはじめた。 |
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武光地蔵【太田川宿】
太田川宿の入口近くの林の中に、身の丈が2m以上ある大きなお地蔵様が祀られています。 |
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雷峰右衛門【江戸時代の名力士】
ある年の秋のことだった。中野目って人の家で摺臼をしていだどき、その家の主が峰右衛門に、「お前がもし、この米俵をもてたら、くれてやるぞ。」と言ったど、峰右衛門はものも言わずに、米俵を持ち上げたかと思うと、スタスタと家さ帰ったという。この話は、峰右衛門が10才の頃の話だっていうから、驚きなんだよなあ。 その他に、若者の力試し用にどこの部落にもおいてある力石を軽々とかつぐんだど。大人でさえ、でぎねってんだから、たいしたもんだよなあ。 その後、泉崎宿部落星家の養子になったんだけど、すもうが好きな峰右衛門は、江戸(今の東京)に出て花を咲かそうという思いが頭からはなれない。家族のもんは、そんな思いは忘れてくれと頼むが、どうしてもあきらめられなくて、とうとう泣いて止める妻をもふりきって江戸に出たんだと。そして、雷(いかづち)権太夫の弟子になったと。 すもうの世界では、最初シコ名を「泉崎権助」と名乗り、亭保2年に音羽山と改名し、文化元年(1804年)三月に入幕したと。(音羽山は角力界の御三家の一つである。) 文化五年、二月場所の四日目に当時天下無敵だといわれていた大関雷電為右衛門と対戦し、見事に土をつけて勝星をあげたんだど。それで一躍名力士といわれるほど有名になったと。江戸市中では、カワラ版が売れ、泉崎の生家には飛脚がとぶという人気だったとさ。当時の狂歌に、「雷電は雲の上かと思えども、音羽の山の下でごろごろ。」とまで歌わちゃと。 ある時、東北巡業があって、そんな時に泉崎十軒前原に土俵をつくり、大角力の興業を行い、村の人にすもうの腕前をひろうしたど。 文化9年に師匠の名を継ぎ、雷右衛門と改命しただという。 文化11年(1814年)四月場所を最後に、入幕してから10年間の幕内生活を引退した。最高位は前頭三枚目だったと。 引退後は、年寄音羽山となり、角界に貢献した。そして文化3年(1821年)5月20日、おしまれながら江戸で、この世を去ったど。「数学院真阿峰居士」がその戒名で、豊島区高田南町の南蔵院に葬られたと。 その後、生家の外ノ入の穂積勇家に位碑が贈られ、泉崎の昌建寺で供養葬が行われた。昌建寺に当時の位碑が保存されている。 碑は踏瀬四ツ谷に建てられたがその後原山地内四号国道そばに移された。高さ一尺の台石三重ねの上に、三尺五寸の碑が立っている。 巡業などで、この碑の前を通行する力士は、篭を下り、または下馬して礼拝したと伝えられている。 (話者 穂積 勇・大野平興) |
八朔祭りと三つの粒雨
農家では収穫を祝う日で柿、桑の実など八つの作物が実るので田の実の節供、又は極早稲が八分程実るので八作とも言った。 昔、関和久の農家では田の神祭りを行う、この日の節供には家族の数だけカヤの箸をつくり強飯を食いお互いに助け合おうとする風習があり、それは田の神さまとの共同飲食をする日でもあったことがうかがわれる。 このように賑やかな烏峠稲荷神社の八朔祭りには、どうしたことか必ず雨が降るとの言い伝えがある。なぜ烏峠の八朔祭りには雨が降るのだろうか不思議でならなかった。 烏峠稲荷は烏峠山の頂上に在る、その山の麓にある十日の森の稲荷は泉崎八斗蒔に鎮座しておる十日の森の稲荷は烏峠稲荷の姉稲荷で烏峠稲荷はその妹稲荷であると言う妹の烏峠稲荷が八朔祭りに盛大なるお祭りをして祀られるのに姉の十日の森稲荷はこれに反して淋しい祀り方なので、その祟りでこの日は三粒でも八朔には雨を降らすのだと言い伝えがある。 田村郡、都山、岩瀬郡などからの青年男女が、お参りに来る時には雨を予想して着物の襟口にコウモリガサの柄をかけた傘を背負ったりして参詣に来る姿は峠祭りの一つの風物詩であった。 (泉崎字富久保 小林 重) |
峰右衛門は天明年間、外ノ入の穂積倉右衛門の弟として生まれ、小さい頃から体格がよくて、力も並外れて強かったんだと。
八月一日は八朔で烏峠稲荷神社の祭りでもある。